大ベストセラーを生んだ中野京子「怖い絵」シリーズに紹介されている「ジェーングレイの処刑」は多くの人に魅了されています。
「ジェーングレイの処刑」のモチーフとなっているイングランド女王ジェーングレイは、どんな人だったのでしょうか?
画家ポール・ドラローシュが描いた「ジェーン・グレイの処刑」には様々な秘密が隠されています。
ジェーングレイの生涯を振り返りながら、絵画に隠されている秘密をわかりやすく解説していきます。
目次
イングランド女王ジェーン・グレイの相関図&年表図をざっくり解説
ジェーン・グレイが生きた頃、日本は室町時代の末期(戦国時代)でした。織田信長が活躍し始めて、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を布教をしていました。
1500年代ヨーロッパは中世ヨーロッパが終わりをむかえようとします。マルチン・ルターによる宗教改革により、キリスト教による支配体制が崩れてきました。
同時にイタリアではルネサンスという文化運動が始まり、文学、歴史学、美術史などが盛んになっていきます。
年代 | ジェーン・グレイの年表 | 世界の年表 |
1533年 | イギリスで生まれる | インカ帝国が滅びる |
1547年 | イギリス王ヘンリー8世が亡くなる | 武田信玄が甲州法度を定める |
1549年 | フランシスコザビエルが鹿児島で布教 | |
1553年 | ジョン・ダドリーの息子であるギルフォード・ダドリーと婚約 | 武田信玄VS上杉謙信(川中島の戦い) |
1553年7月19日 | メアリ1世が即位 | |
1554年2月12日 | 16歳、ロンドン塔で処刑される |
いとはる さんの解説動画「ジェーン・グレイの処刑」
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]文字が苦手な方はこちらに解説動画がありますので、どうぞご覧ください。[/voice]
[su_youtube url=”https://www.youtube.com/watch?v=1bfSXIcg1Ks”]
イギリスに生まれた高貴な家系に生まれた才女
1533年イングランドでフランス王妃も輩出する大変高貴な家系に長女として生まれました。ジェーングレイは、両親の期待を一身に受けて厳格に育てられました。
ジェーングレイは、次女達の目を盗んで島内の小さな部屋に足を運んで本の世界に没頭しました。そして、ジェーングレイは、古代ギリシャの書物を原文で読めるほどの才女へと成長しました。
1547年、傲慢でわがままな性格で知られるヘンリー8世が他界されました(ジェーングレイは10歳)
その後、貴族の権力争いにジェーン・グレイは巻き込まれて行きます・・・
わがまま王ヘンリー8世の死。ジョン・ダドリーの暗躍。
photo by ジョン・ダドリー
ヘンリー8世がこの世を去った後、エドワード・シーモアという貴族が幼い後継者エドワード6世を影で操っていました。それを恨めしく思っていたのが同じく貴族のジョン・ダドリーという人物です。
ジョン・ダドリーは、エドワード・シーモアをセッションの座から引きずりおろし監獄送りにし後に嘘の罪状を突きつけ処刑しました。
photo by エドワード6世
しかし、エドワード6世は梅毒という先天性の梅毒という病気を持っていました。風邪にかかり日に日に生気を失っていく若き王。
ジョン・ダドリーは、エドワード6世の後に王位に就く人物について考えていました。当時のイングランドではプロテスタントとカトリックの対立が激しくなっていました。
中でもメアリー1世は、プロテスタントを強く嫌い多くの信者を処刑していました。
ジョン・ダドリーは、プロテスタント信者でした。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/John_Dudley.jpg” name=”ジョン・ダドリー” type=”l”]もし、熱狂的なカトリック信者であるメアリ1世が次期女王になったら、私の立場も危うい・・・[/voice]
ヘンリー8世の遺言に従えばエドワード6世の後に王の座を継ぐのはメアリ1世。
ジョンダドリーはメアリーに変わる女王を探していました。血筋とちょうどのいい年頃の少女だったジェーン・グレイを利用しました。
photo by ギルフォード・ダドリー
ジョンダドリーの息子(ギルフォード・ダドリー)をジェーングレイと結婚させ、次期女王に擁立させようと陰でこっそりと牛耳ろうとしました。
息も耐えたえで死にそうなエドワード6世のもとにジョンダドリーは足しげく通いました。ジェーングレイを次期女王にする宣言させることに成功します。
イギリス王を巡って権力争いの中、ジェーン・グレイは・・・
15歳でなくなったエドワード6世。突然ジェーンは呼び出されました。
船で連れてこられた邸宅には宮廷の重役を含むたくさんの貴族が集まっていました。ろうそくで照らされた薄暗い部屋の中で彼女にある事が告げられます。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/web-atogi.jpg” name=”貴族” type=”l”]陛下はあなたを次期皇位継承者に指名されました。[/voice]
いよいよ王冠がさし出されようとした時、ジェーンは言います。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/jayne.jpg” name=”ジェーン・グレイ” type=”l”]受け取る事ができません。[/voice]
秘密裏にジェーングレイを擁立しようとした貴族達でしたが、やむをえず正式に戴冠式を行う運びになりました。
秘密の儀式から8日後のある日・・・
photo by メアリ1世
メアリ1世が民衆を率いてロンドンに進軍してきました。メアリ1世と民衆を鎮圧しようとしましたが惨敗。
命の危機を感じた貴族達もメアリ1世を支持。メアリ1世が女王として即位しました。
ジェーンを裏で操ったジョン・ダドリーは即刻処刑。当初、メアリ1世は、ジョン・ダドリーの操り人形として利用されていたジェーンを処刑しませんでした。
ところが、翌年、ジェーンの父親(ヘンリー・グレイ)がフェリペとメアリ1世の結婚に反対して、反乱(ワイアットの乱)を起こしました。その為、ジェーンも反逆者として処刑されることになったのです。
処刑当日!なぜ?ジェーン・グレイは手を伸ばしたのか?絵画の秘密を知る!
photo by Wikipedia
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]1554年2月12日に処刑が行われます。[/voice]
ジェーングレイは真っ白い絹のドレスを着ていました。彼女が処刑台に上がったら次女が白いハンカチで彼女に目隠しをするはずでした。
しかし、次女が話のショックのあまりに気絶。ジェーンは自分で目隠しをしなければならなくなってしまいます。いざ、目隠しをすると視界を奪われ自分のクビを切るための台の位置がわからくなってしまい。
ジェーン・グレイはこう訪ねました。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/PAUL_DELAROCHE-2-e1585391812528.jpg” name=”ジェーン” type=”l”]それはどこにありますか?[/voice]
老いた司祭はジェーンの手を首切り台に導きました。第二首を置くとジェーンは今度は処刑人に対してこう言いました。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/PAUL_DELAROCHE-2-e1585391812528.jpg” name=”ジェーン” type=”l”]私の魂をあなたの手に委ねます。[/voice]
16歳とは思えないほど最後まで気高い女王でしたロンドン塔のパワーグリーンに設けられた処刑台で死を遂げた。
権力争いに翻弄されたジェーン・グレイは、ロンドン塔の聖ペテロワードビンキュラー教会に眠っています。
【補足】画家ポール・ドラローシュが描いた傑作「ジェーングレイの処刑」
photo by ポール・ドラローシュ
画家ポール・ドラローシュはフランス出身の画家でした。パリ国立美術学校で修行をし、歴史画を描いていきました。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]画風はドラマチック、演劇的な作品が多いです。[/voice]
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/aya-nigaoe-e1584053056902.jpg” name=”AYA” type=”l”]ジェーングレイの処刑を見るとオペラ座に出てきそうな絵だよね。[/voice]
1833年に完成した「ジェーングレイの処刑」はパリのサロンで大きな人気を得ました。夏目漱石がヨーロッパの留学中にナショナルギャラリーで鑑賞したと言われてます。
1928年、テムズ川の氾濫によって長い間、行方不明でありました。しかし、1973年見つかり、現在もロンドンのナショナルギャラリーで飾られています。