名門ハプスブルク家に嫁いだエリザベート王妃(愛称シシィ)。身長172cm、ウエスト50cmという驚異のプロポーションを持っており、絶世の美女とうたわれていました。
しかし、エリザベートは美貌ゆえに悲劇的な人生を送ります。美貌ゆえの悲劇的な人生を歩んだせいか、世界中、ミュージカルの題材にされています(日本では帝国劇場、宝塚)。
そんなエリザベート王妃の生涯をわかりやすく解説していきます。
目次
エリザベート王妃の相関図&年表図をざっくり解説
1800年代はフランス革命によって国民国家が出てきました。ナポレオンが皇帝になった年代でもあります。各国の王様(君主)たちは、国民によって殺されないか…不安でいっぱいな時代だったかもしれません。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]もちろんエリザベートのハプスブルク家もそうでした。[/voice]
また、日本は幕末期、1853年黒船ペリーが来航していました。江戸から明治に変わる激しい時代でもありました。
1837年 |
12月24日、ドイツの貴族として生まれる | 大塩平八郎の乱 |
1853年 |
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に求婚 | 黒船来航 |
1854年 |
オーストラリア皇后となる(16歳) |
クリミア戦争 |
1855年 |
第一子 ゾフィー出産 |
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ストレスにより療養生活 |
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1889年 |
オーストラリア皇太子 ルドルフの死 |
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1898年9月 |
暗殺される(60歳) |
パリ条約の締結によりキューバが独立。 |
いとはる さんの解説動画「エリーザベトの人生」
文字が苦手な方はこちらに解説動画がありますので、どうぞご覧ください。
[su_youtube url=”https://www.youtube.com/watch?v=iuTPprMei4I”]
格式が大嫌い!大好きな父親と育った幼少期
by幼少期を過ごしたポッセンホーフェン城
1837年12月24日、ドイツの貴族であるマクシミリアン公爵夫婦のもとに生まれます。フルネームは、エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハといいます。
エリーザベトの父は宮廷の格式を嫌ったため、一家で田舎に暮らしていました。
夫妻はドイツの貴族からは蔑まれていました。しかし、身分に関わりなく人と接する彼は市民からの人気が高かった。
狩り、音楽、詩作、旅、といった趣味に明け暮れる父。父のことが大好きだったエリーザベトは、のびのびと成長しました。
16歳で結婚!!ハプスブルク家ヨーゼフ1世との出会い
by挙式を挙げた
エリザベートは、父の影響のせいか教養や礼儀作法の勉強はサボってばかり。当時の貴族の娘は、良い家系に嫁ぐ以外に生きていく道がなかったため、母は心配になります。
エリザベートの母、ルドヴィカは幼い頃から宮廷での礼儀作法を身につけた貴族でした。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]母のルドヴィカと父のマクシミリアン公爵は、互いに嫌いで別々に暮らしていたそうです。また、エリザベートとは対照的に、姉のヘレーネは貴族の令嬢らしい礼儀作法ができてました。[/voice]
母のルドヴィカから、姉のヘレーネに見合い話が持ちかけられます。1853年、礼儀作法のお勉強としてエリーザベトは姉、ヘレーネのお見合いの場に連れてかれます。
お見合い相手は名門ハプスブクク家でもあるオーストリア皇帝ヨーゼフ1世。しかし、姉ではなく、エリーザベトに一目ぼれしてしまいます。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]しかも、ヨーゼフ1世はその日に、エリーザベトをダンスに誘い、花束を渡して結婚の申し出したそうよ[/voice]
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/aya-nigaoe-e1584053056902.jpg” name=”AYA” type=”l”]まさにハプスブルク家の美女と言われる出来事ですなぁ[/voice]
エリザベートは縁談に乗り気ではありませんでした。しかし、相手は皇帝で断れずに、エリーザベトは、16歳でオーストリア皇后の座につくこととなったのです。
姑ゾフィとの戦い!格式を嫌い療養の旅へ
byオーストリアのウィーンにある皇帝居館
エリーザベトの生活はこれまでと正反対のものになりました。
礼儀作法や王家に伝わるしきたりを叩き込まれ、皇后としてのふるまいを求められました。
ヨーゼフの母でありエリーザベトの姑であるゾフィーは、彼女の無知ゆえの卑しさを嫌い、周りの宮廷人たちを巻き込んでエリーザベトを虐げました。
宮廷で唯一の味方であるヨーゼフ1世は、クリミア戦争などの外交や国内の政治において、緊迫した状態が続いていたため嫁姑問題に関る暇はありませんでした。
状況をさらに悪化させるある事件がおこります。
皇帝ヨーゼフ1世との旅行にゾフィーの反対を押し切って娘2人を連れて行ったところ、長女が感染病で他界してしまったのです。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]娘の死後、エリザベートは責任を感じて、養育には姑のゾフィーに任せ、口を挟まなくなったそうです。[/voice]
余計に姑ゾフィーににらまれることになったエリーザベトはストレスで肺結核になり、療養の旅へでることをすすめられます。
旅はエリーザベトにとってよい気晴らしになり、かつての自由を取り戻し体調も順調に回復。
しかし、宮廷に帰ってくるとたちまち病気はぶり返しました。
ストレスのはけ口としてか、このころエリーザベトは美に執着し、気が狂ったように自分磨きにのめり込みました。
果物と乳製品に偏った食生活で、毎日何時間も運動。
牛の血を飲んだり、イチゴでパックをしたりと美容に良いと聞いたものはなんでも試しました。
過酷なダイエットと間違いだらけの美容法のせいで、皺とシミだらけになった顔になりました。晩年は、分厚い黒のベールと革製の高価な扇や日傘で隠すようになった姿は伝説としてあります。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]ある文献によるとマリーアントワネット並みの浪費家だったそうよ。[/voice]
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/aya-nigaoe-e1584053056902.jpg” name=”AYA” type=”l”]そりゃ、合わない環境にいるとストレスが溜まって浪費家になるよ・・・[/voice]
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]でも、エリザベートはあまり公の場に出なかったけど、ハンガリー国民には人気があったそうよ。[/voice]
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/03/aya-nigaoe-e1584053056902.jpg” name=”AYA” type=”l”]なんで?[/voice]
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]個人的な興味があったらいいよ。
ある時、ハンガリーの使者をハンガリーの民族衣装を着て迎え入れ、ハンガリー語でスピーチをしたそうよ。難しいとされるハンガリー語を勉強してね。
他にも夫のヨーゼフ1世を説得して、支配していたハンガリーを自治区として認められたそうよ。[/voice]
姑ゾフィの死。息子ルドルフの死。
宮廷生活で皇后として務めるよりも旅にでている月日の方が長くなっていった。エリーザベト35歳のある日、ついに姑ゾフィが亡くなりました。
亡くなる間際までいがみ合っていたかと思いきや、ゾフィーが息を引き取る前に2人は和解したといいます。
エリーザベトは生涯で3人の女の子と1人の男の子を生みました。
エリザベート21歳の時に生んだ息子ルドルフは、幼いとき、体が弱かったのにも関わらず虐待まがいの厳しい軍事教育を受けたため、恐怖心を抱きながらも暴力的で激しい思想を持つ人物に成長します。
ルドルフは結婚生活がうまくいかなくなり、酒に溺れました。エリーザベト51歳の時、ルドルフは30歳という若さでこの世を去りました。
自分が旅に出ていたせいで息子を思うように愛せなかったという罪悪感から、エリーザベトは死ぬまで喪服をぬぎませんでした。
腹いせに殺された最後の死
byエリザベートが亡くなったジュネーブ・レマン湖
1898年9月、エリザベート60歳の時、運命の日が訪れます。
スイスのジュネーブで船に乗ろうと道を歩いていると、音もなく1人の男(ルイージ・ルケーニ)がエリザベートに忍びよりました。
鋭利な先のとがったヤスリで彼女の心臓を一突き。エリザベートは息をひきとりました。
犯人は、王族や貴族は皆平和の邪魔になると考える過激な思想の持ち主で、本来は別の人物を刺し殺そうとしていた人物でした。
しかし、もともとの標的が急遽場所を移動したため計画を実行できなくなり、その腹いせにエリーザベトを殺したのです。
[voice icon=”https://aya-celine.net/wp-content/uploads/2020/02/itoharu-nigaoe-e1584053113223.jpg” name=”いとはる” type=”l”]皇后暗殺の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は悲しみにくれたそうです。[/voice]
参考文献&映画
エリザベートを解説するにあたって参考にした書籍&映画です。この記事を読んで、ハプスブルク家にご興味を持った方には、こちらの書籍がオススメです。
参考文献
・「ハプスブルク家『美の遺産』」世界文化社